【メインブログから移行してきた記事です】
こんばんは、りんごです(・∀・)ゝ
今日は、英語教育について思うことについてまとめてみました(●´∀`●)
英語教育について思うこと (私個人の経験および見解)
いきなり自分語りから始まりますが…。
私は中学までは英語が得意でした。
テストで100点をとったこともあったくらいなので、かなり得意な方だったと思います。
でも、残念ながらその「得意」は続かず。
高校挫折組でございます('A`)
聞き取りが本当に出来なくて…。
単語も新しいものがどんどん出てきて、文法も覚えることが次々出てきて。
当時の英語の先生との相性の悪さも相まって、一気に苦手科目となってしまいました。
そして、一度苦手だと思ってしまうと、中々その苦手意識が克服されず。
元来の日本人気質もあり、「間違っていたら恥ずかしい。発音が変だと思われるのが恥ずかしい」などと思うようになり、ますます英語を苦手だと思うようになっていきました。
それに加え、私の地元では外国人という存在がほぼ皆無だったこともあり、普段英語に触れる機会がまっっったくなくて。
外国語=特別なもの、という感覚が私の中にありました。
かといって、私自身、英語が『嫌い』というわけではありません。
『怖い』『恥ずかしい』という感情が近いと思います。
現在、DWEの一環で、週に一度外国の先生へ電話をしているのですが、もちろん今はしーちゃんが電話をかけられるわけもなく、親の私が取り次いでいます。
しーちゃんが先生と英語のお歌を歌った後、電話を切る際に「前回よりも楽しそうに歌ってました」とか「すごく素敵な歌声でした」なんて言いたい場面が多々あるのに、なんて言っていいのかわからず、そして頭に浮かんだ言葉が果たしてあっているのかも自信がなく「さんきゅー、ぐっばーい」としか言えない私。
また、その先生とのお電話では、ある程度親の会話の雛型が決まっているのですが、先生によってたまにその雛型にはない会話をしてくれる先生もいらっしゃいます。
多分、「しーちゃん頑張って歌ってたね」的なことを私に伝えてくれているのだと思うのですが…、先生ごめんなさい、本当に聞き取れません(´;ω;`)
そんな会話のお返事は毎回「せんきゅー」「いえす」「おっけー」のいずれかでどうにか対応している情けないお母ちゃん。
会話をしたいのにそれが出来ない、というもどかしさを毎回味わっています('A`)
話は少し変わりますが…
私は難解な方言でも上位にあがるであろう、東北の「りんご県」の出身です。
テレビなどで地元の人がインタビューを受けると「§¢ξЙ‰…」みたいに書かれているのを見るたび、他県の人には聞き取れないんだろうな、と思います(;´∀`)
でも、生まれながらに聞いていると、そんな難解な方言でもわかるもので。
(あ、でも年配の人の会話は単語がわからないことあります。笑)
もちろん、文法の違い等もあるわけですし、方言と外国語は一緒にすべきものではないのかもしれませんが、でも「耳をならす」という点においてはあながち「別物」とも言いきれないのかな、と私個人としては思っています。
そんなりんご県生まれの私が地元を離れてから早15年が経ちました。
現在はというと…、父の言うことがたまにわからないことがあります。笑
「えっ??何???」と帰省中何度聞き返したことか。
自分の親が言ってることが一発で聞き取れないって、どうかと思うヽ(´o`;
この点においても、継続して聞くことが何よりも重要、ということを身をもって経験しました。
何度かご質問もいただいていたのですが、
『英語が一番!!!日本語より英語!!!』
と考えているわけではありません。
母国語である日本語の大切さも、もちろん感じています。
ただ、英語が話せたら『子供の人生の可能性は広がり、歩んでいく道の選択肢も増えるのではないか』と思っています。
そして、今の私が感じているようなもどかしさも経験しなくてすむとも。
英語が話せれば交流関係も国籍を越えて持てるようになるかもしれないし、将来選べる仕事の幅も広がるかもしれない。
そして、何より得意なことがあるということが自信につながるかもしれない。
これからは小学校から英語が必須科目となる時代。
私が経験してきた以上に英語が必要になってくるだろうし、そうなったときに少しでもその環境になじめるように。
そして、英語というものに対して私のように「特別なもの」という認識ではなく「コミュニケーションツールのひとつ」として、もっと身近に感じてもらえるように。
そんな思いの元、早くから英語に触れる環境作りをしてきました。
現に、幼いころからまーったく英語に触れてこなかった私は、津軽弁は聞き取れても英語は全く聞き取れません。
LだのRだの言われてもなんだかよくわからないし、キレイに発音することも出来ません。
しかしながら、津軽弁の「かときの間」「さとしの間」のような独特の発音は今でもバッチリです。
(なんの自慢だ。笑)
早くから英語の教育を始めることが将来的に子供へどのような影響をもたらすのかは、私自身専門家ではないですし、経験者でもないので正直なところわかりません。
ただ、全く英語に触れてこないと私のように英語が聞き取れない人になるかもしれない、という危惧はしています。
※もちろん人によるとは思いますが…
早期英語教育のデメリット等、懸念されていることがあることも踏まえた上で、わが家は「早くから始めることのメリット」を選択しました。
たくさんの英語を聞かせることで、大人では聞き取れない外国語の音も耳に定着するようになる。
英語に対しての抵抗感がなくなる。
そんなメリットを魅力に感じたのです。
これは夫婦共通の考えです。
以前、ほんの少しだけこの英語教育についてブログ上で触れたとき、「自分が苦手だったから学ばせるなんて親のエゴ」とコメントをいただいたことがあります。
でも…私にはそう思えなくて。
例えば、私が通訳を目指していたのになれなかったから、しーちゃんには何がなんでも通訳を目指してほしい、とかならエゴだと思います。
自分が苦手でもどかしい経験したから、子供には苦労してほしくない。
そういう思いをせずにすむかもしれないのなら、今からちょっと取り組んでみよう。
こう考えることが悪いことだとは私には思えませんでした。
この当たりの考えも、人それぞれなのかな、と思います。
英語だけにとどまらず、巷ではたくさん育児についての話題が溢れていると思います。
ある人は「叱らない育児をすべき」と言えば、ある人は「そんなことをしたら弱い人間になる」と言い。
ある人は「泣いたらたくさん抱っこするべき」と言えば、ある人は「そんなことしたら抱っこ癖がつく」と言い。
ある人は「生後5-6ヶ月から離乳食を始めるべき」と言えば、ある人は「アレルギー予防のために遅くするべき」と言い。
情報が溢れすぎていて、何を選択するのが正解なのかわからなくなることが頻繁にあります。
たくさん情報はあるけれど、どれも間違いじゃないし、どれを選んでもいい。
子供へどういう風に育ってほしいのか、どういう風に育てたいのか、どれを取捨選択していくのかを考え。
そうやって模索していくことが、『育児は育自』と言われる所以なのかな、と。
誰しもが初めての育児なわけで、始めから「こうすべき」と決められる人なんてほとんどいない。
少しずつ悩みながら経験を積むことで、親としての自分も育てているのかな、と思っています。
後編に続きます(●´ω`●)